薬の歴史

執筆 宇治 昭 (薬学博士)

 三百万年の昔この地球上に人類が現れました。

 石器時代のころから現代に至るまで、食物の確保と病気の克服は、人類にとっての最重要な問題として取り組まれてきました。
 太古の人たちは、口にする自然物、ことに草根木皮がときに毒となって有害な作用をあらわし、毒がときに病気の苦しみを緩和し治療する薬になりうることを知り、多くの経験を積み重ねて、食と毒と薬の区別、利用知識を習得するに至りました。
 このように、食をめぐる経験、知識の蓄積と進歩は、同時にある特定の病気に効果のある食物など、病気に有効な天然薬物や医療手技の発見、進歩をもたらし、伝承されてきたと考えられます。


世界の医学と薬のあけぼの

 紀元前数千年の昔、古代文明発祥の地、メソポタミア地域、ナイル川河畔、インダス川流域、黄河流域では、それぞれの地理的、気象的な条件のもとでの農耕や狩猟文化の発展と並行して、独自の医療と薬の知識(伝統医学・薬物学)を発展させています。古代アラビア医学、ギリシャ医学、インド医学(アユルヴェーダ)、東洋医学(漢方医学)などです。

 太古の人々が、健康で安寧な社会生活を営むためには、天然物の薬としての利用にせよ祈祷にせよ、自然を恐れうやまい、自然界のすべての事象を観察認識し、利用することが必然の流れであり、不可欠なことでした。また、農耕や牧畜を営むためには、長年にわたって自然現象を観察理解し、その全容を体系的、理論的に把握すること、その結果として気象学、天文暦法など、さらには自然哲学、宗教の発生、深化は必要不可欠なことでした。

 さらには、自然界の中での人体のしくみ、生理、病気の原理・原因や病気を克服する方策について、それぞれの地域環境にあわせて試行錯誤が繰りかえされ、やがては各地域固有の古医学(伝統医学)として確立したのではないでしょうか。その一部は形を変えて、現代もなお有用な治療法として根づよく受け継がれ、使用されています。

  では、これら古い伝統医学において、どのような天然産物が医薬に供されていたのでしょうか。それらはローマ軍の軍医ディオスコリデスが、1世紀の頃著した薬物書『De Materia Medica』や後漢時代(AD25~220)の著で中国最古の薬物書といわれる『神農本草経(シンノウホンゾウキョウ)』に収録されている、数多くの薬物から推測することができます。

 のちに日本にも伝えられた『神農本草経』では、薬物(生薬)を上薬、中薬、下薬に分けて解説しています。「上薬」は強壮保健剤、無毒で不老延年を望む人が飲むべきもので120種。
 「中薬」は病気の予防、強壮に効果があるが、毒のあるものやないものがあり120種、「下薬」には125種あって病気を治す薬で、毒があり長期服用してはいけないものとされています。

 収載薬物の中には、現代も漢方処方に重要生薬として、頻繁に配合されているものがあり、2000年の昔、日本の弥生時代の頃、すでにこのような薬物の利用知識が知られていたことは、太古からの中国文明の奥深さを示したもので驚嘆すべきことと思われます。

 

日本の医学のあけぼのと薬のあゆみ

古墳時代以前--

 日本でも、近年考古学の発展によって、縄文時代(紀元前数千年~前3世紀頃)から弥生時代(紀元前3世紀頃~後3世紀頃)の文化や社会制度或いは食生活が、予想以上に高いレベルにあったことが明らかにされています。  ところが、日本では薬物に関係のある記録は6世紀の頃まで極めて少なく、ほとんど分かっていません。

 日本最古の歴史書『古事記』に、大巳貴命(オオナムチノミコト)が稲羽の白兎の負傷に蒲黄(ガマの花粉)を用い治したこと、神産巣日之命(カミムスビノミコト)が大巳貴命の火傷に蚶貝(アカガイ)と蛤貝(ハマグリ)の黒焼きを用いたことが記録されており、日本の薬物の記録として最初のものとされています。
 この二つの治療例以外にも、日本で太古の昔から伝承されてきた薬物、すなわち和薬を用いる療法が行われていたと考えられています。
 その多くは、恐らくは現代の民間薬のようなもので、当薬(せんぶり)、げんのしょうこ、どくだみ、延命草(しきおこし)、蝗(いなご)などが、日本固有の和薬として用いられたという説もありますが、真相はほとんど分かっていません。

 一方、世界各地原住民の伝統医療から考えると、日本でも昔の医療で用いられた薬は、外用薬が主なもので、内服薬としては酒を用いたに過ぎず、病気になったときは薬物よりも、むしろ加持祈祷(カジキトウ)やまじないが主であったともいわれています。

 日本の医薬史において、「祈祷・原始医学時代」といわれる時代です。


大和・飛鳥・奈良・平安時代

 日本における医療と使用薬物についての記録は、大陸と人や物の交流が盛んになった大和時代(4世紀半ば~600頃)の頃から、数多く見られるようになります。

 允恭(インギョウ)天皇3年(414)新羅(シラギ)に良医の派遣を乞い、金武が来日して天皇の病気を治療したといわれています。このときに大陸医学(中国医学)による治療法と薬物がもたらされました。
 また、雄略天皇3年(459)には百済の医師徳来が来日して、難波の地に住みつき、代々医業にたずさわりました。これが難波の薬師(クスシ)の始まりです。

 時代が移り飛鳥・奈良時代(600~794)から平安時代(794~1185)の頃になりますと、遣隋使(630~、5回)に引き続いて、遣唐使(630~894、19回)が直接中国大陸に派遣され、仏教の戒律、律令制度、都市計画など、大陸の華麗な先進文化が続々ともたらされました。
 医薬の分野についても同様です。遣唐使の渡航者の中には、唐の医学を学びその術技に長じたのち、帰国した者もあらわれています。薬物に精通した高僧鑑真(ガンジン)が来日したのも、正倉院に現存するような薬物や隋、唐の医書、薬物書が渡来したのもこの頃です。

 奈良・平安時代には鉱物薬、動物薬が比較的多く用いられたといわれ、正倉院に現存する薬物などから推察すると、遠く海外から中国経由で輸入された麝香(ジャコウ)、熊胆(ユウタン)、鹿茸(ロクジュウ)、牛黄(ゴオウ)、海狗腎(カイクジン)などがあります。
 これらは現代でも高貴薬として珍重され、奇応丸、六神丸などに配合されています。  こうして日本にもたらされた中国医学(漢方医学)で用いる薬物は、天然の動植物や鉱石から得られる、いわゆる生薬(ショウヤク)です。その生薬の種類と数はかなり異なりますが、天然物を原材料としている点では、世界の他の地域の医薬(伝統医学・薬物)と変わりありません。

  輸入され処方される生薬は、唐物(カラモノ)として珍重されましたが、中国に産するものばかりでなく南方の生薬も多く、この時代に高価な生薬配合薬を利用できるのは、ほとんど朝廷など一部の支配階級の人達に限られていたと思われます。そこで、原料生薬を国内産でまかなうための様々な方策が試みられています。
 古くは推古天皇元年(593)に四天王寺を建立し、そこに療病院、施薬院などを併設した厩戸皇子(ウマヤドノオウジ)(聖徳太子)は、「薬草は民を養う要物なり。厚く之を畜うべし」と、勅命をもって薬草の採取貯蔵を奨励しています。

 飛鳥時代の大宝元年(701)には、唐制を参考に「大宝律令」が制定され「医疾令」として、後の医薬制度の基礎となるものが公布され、また、和銅3年(710)に都を平城に建設して、中央集権制の確立をはかったことなどもあって、医薬の道も漸次進歩の道をたどるようになりました。

   さらに、平安時代(794~1185)になると、交通網や商業が発達して、唐物などの交易品の輸入も益々盛んになり、産物が中央に集まるとともに、文化も経済も著しく発達した時代です。
 遣唐使の派遣も反復されるとともに、中国の医学手技や薬物についても大いに研究研鑚され、日本の国情、風土にあわせて進歩発展してまいります。
 永観2年(984)丹波康頼(タンバヤスヨリ)が多数の隋、唐の医書などを引用、集大成して、医薬処方剤や治療の法則を論じた『医心方』30巻を著したのもこの頃です。
 この書は現存する日本最古の医書として有名です。

   また、醍醐天皇の勅命によって編纂された『延喜式』(905~927)は、この頃の国内薬物事情を推測する上で貴重な資料です。
 その巻37典薬寮の項にリストがあり、畿内山城国など全国57の諸国から朝廷に進貢された170余種にも及ぶ生薬の品名と数量が、国別に克明に記録され、さらに宮中で用いる配合製剤(丸剤や軟膏剤など)も収録されています。『延喜式』に記録されている生薬には、当時日本に産出しなかったと考えられるものもありますが、その内容が後世江戸時代から現代の国産常用生薬と変わりがないのは、この時代にすでに国内の薬草の探索が相当に進んでいたことをうかがわせるものです。

 

鎌倉時代から安土桃山時代

 鎌倉時代(1186~1333)から吉野室町時代(1334~1573)を経て、安土桃山時代(1573~1603)に至る約400年間は、戦乱相ついでおこり一般文化は停滞した時代ですが、逆に交通の発達や海外貿易などの影響もあって、商業が大いに盛んになりました。
 また、幕府の保護政策などもあって仏教は益々盛んとなり、中国大陸を往来する僧侶も多く、仏教の普及とともに、医療技術や薬物書なども数多く輸入されています。
 この頃もたらされた医薬書の代表的なものが『太平恵民和剤局方』30巻(1107)です。この医薬書(一種の配合製剤・適用集)は、中国宋の皇帝が庶民救治のために、30年の歳月を要して諸国の秘薬の処方を選述したもので、のちの日本における売薬(家庭薬、多くは丸剤)の多くは、この医薬書を参考につくられたといわれています。
 この時代も医術はやはり主として僧侶の手によって行われています。
 また、仏教の普及活動とともに、寺院に療病院や施薬院を設けて窮民救済をはかる僧侶もいて、医療や薬(配合製剤)が民間にも及び普及するようになりました。

 東大寺の”奇応丸”、西大寺の”豊心丹”、平泉寺の”丸薬”などが、鎌倉時代に創製され、室町時代になって広く世に知られるようになったといわれています。

 僧医田代三喜(1465~1537)が明に渡って医学を学び、帰国後曲直瀬道三(マナセドウサン)らとともに活躍、多くの医薬書を著しています。

 また、門下から多数の名医が輩出して、日本の近世漢方医学に画期的進歩をもたらしました。


江戸時代

 慶長8年(1603)家康が覇権を握り、江戸に幕府を開いて250年近く続いた戦乱の世に終止符をうち、幕政の安定と民心掌握に努めたので、次第に泰平の世を謳歌するようになりました。

 大陸との交流も盛んに行われ、明の李時珍が30年を要して編纂、1892種の本草(生薬)について薬効などを詳しく記述した「本草綱目」(ホンゾウコウモク)(1590)が、慶長11年(1606)に輸入され、活版印刷技術が勃興したこともあって、その和刻本が寛永14年(1637)には早くも京都において刊行されています。
 この本の導入は、江戸時代(1603~1867)の本草学(漢方で用いる生薬類を研究対象とする学問)の目覚しい発達に多大の影響を与えています。また、本草学の発達の他に、生薬の採取と栽培の奨励(享保末期には朝鮮人参の栽培成功)し、実物経済から貨幣経済へに移行もあり、交通や経済も大いに発達してまいります。
 このような時代背景があって、医薬(あわせ薬)が”売薬”の名称で、民衆の簡易な治療薬として、広く一般大衆に融け込んで普及し、用いられるようになったのは、8代将軍吉宗の治世(1716~45)の頃からであったと思われます。

 幕府は医薬の生産を奨励し、率先してその販売を支援したこともあって、薬種問屋や成薬店(配合製剤、あわせ薬店)などがおこり、医薬の普及、大衆化が大いに進み、江戸時代末期にかけて売薬の最盛期を迎えます。また、江戸時代中期以降には、医薬の民間普及と救民を目的とした配合製剤(あわせ薬)の調整法、薬効や使用法を詳しく解説した実用書が、実に数多く出版されるようになっています。このことは各地の家伝薬や秘薬が、売薬として次第に販売されるようになった経緯を物語っています。この頃の売薬の主なものとしては、延齢丹、竜脳丸、反魂丹、奇応丸などがあります。

 藩の経済基盤の安定向上を目的に、越中、田代、近江、大和などの配置売薬が始まったのもこの頃です。なお、肥前国(佐賀県)田代は対馬藩の離れ領地で、田代の代表的売薬”人参奇応丸”、”朝鮮秘伝奇応丸”は、当時対馬藩が朝鮮からの独占的な輸入専売権をもっていた高貴薬人参を配合していること、医薬先進国であった朝鮮国を販売政策上販売名に表示したものとして興味がもたれます。

 売薬には丸剤の剤型のものが多く、使いやすさや印篭に入れて携帯するのに便利な剤型で、一般に好まれたためではないかと考えられます。


南蛮医学、蘭方医学と洋薬の伝来

 西洋医学が伝来したのは16世紀の中頃です。天文12年(1543)ポルトガル人が初めて種子島に漂着後、多くのポルトガル人やスペイン人が渡来するようになりました。

 彼等はキリスト教伝導のかたわら医療を施し、好評を得ました。

 ポルトガル人、スペイン人が行った西洋医学を南蛮医学(ナンバンイガク)といい、長崎、京都に病院を設けるなど、盛んに医療を行っていました。しかし、彼等の医療は、手持ち洋薬が少なく、軟膏、硬膏を創傷(ハレモノ)などに用いる膏薬外科の域を越えなかったともいわれています。

 オランダ人の来日は、慶長2年(1597)九州平戸に来たのが最初です。寛永16年(1639)から200年余に及ぶ鎖国の間も、オランダ人と中国人のみ、長崎での交易が許されていました。幕府は医学、天文に関する書籍の輸入を禁じなかったので、医学、薬学、博物学関係の書籍が輸入され、長崎出島のオランダ商館は貴重な海外文明に接する窓口となっていました。この頃には蘭方医学で使用する薬物(蘭方薬)が輸入されています。
 アニス、アラビアゴム、カミツレ、キナ、ゲンチアナなどの西洋生薬の他、アンモニア、安息香、塩酸、酒石、硝酸銀、炭酸カリ、炭酸アンモニウム、吐酒石などの化学薬が使われたようです。

 さて、江戸文化最盛期の文政6年(1823)に、オランダ医官として長崎に赴任したドイツ人医師シーボルトは、その博識をもって西洋医学の他、博物学、動植物・鉱物の知識なども教授し、臨床講義を行いました。師事した門人は7年間に60人余に及び、多くの医師、自然科学者が育ち、その後の日本の医薬学、博物学や自然科学の発展向上の基礎をつくりました。

 そして、初めは膏薬外科の域をでなかった西洋医学を、初めて本来の姿で、その使用薬物とともに日本に紹介し、伝授しました。

 シーボルトの慣用薬には、アンモニア水、阿片、テリアカ(底野迦:アヘンを含む製剤。
 解毒薬、鎮痛万能薬)、カミツレ、カノコソウ、サフラン、吐根、ベラドンナ(ロート根)、ジギタリス、ビリリ(牛胆)、エーテル、カンフル、塩酸、炭酸アンモニウム、鉄粉、葡萄酒をはじめ欧米に産する本来の西洋薬物(洋薬)が多く、その他丁字、薄荷、ラベンダー、桂皮、胡椒など東南アジア産の多くの香辛料や漢方でも用いる薬物(生薬)などがあり、実に多岐にわたる薬物が医療の場で使用されたことが分かります。
 この西洋薬物の多くは、西洋医学でよく使用されていた代表的用薬です。


明治維新以降

 明治時代になると英米医薬学やドイツ医薬学が本格的に取り上げられ、大いに進展しました。

 明治4年(1871)には初の医薬品(配合製剤)の基準書である陸軍の『軍医寮局方』が、翌5年には「官版薬局方」と表題をつけた海軍の『海軍軍医寮薬局方』が出版されていますが、その内容は英国およびオランダの薬局方に準じたものでした。

 この頃伝えられ輸入された医薬としては、コロダイン(複方クロロホルム・モルヒネチンキ:英局方準拠)、複方ゲンチアナチンキ(独・英米局方)、芳香アヘン酒(阿片サフランチンキ:英国医師の処方)などの配合製剤のほか、石炭酸(フェノール)、抱水クロラール、モルヒネ、サントニン、エーテル、炭酸アンモニウム、次硝酸ビスマス、アトロピン、ブロムカリウムなどの化学薬やジギタリス、吐根、ストリキニーネ、キナ皮など、実に数多くのものがあります。

 海外から日本にもたらされ、施用された医学・医術と医薬は、漢方医学(東洋医学)、南蛮医学(ポルトガル・スペイン医学)、蘭方医学(オランダ医学)、英米医学、ドイツ医学の順で渡来しました。現代も施用されている漢方医学・医術で用いる処方薬(漢方薬)は、生薬を一定のルールにしたがって配合したものです。一方、南蛮医学からドイツ医学にいたる欧米の医学で用いる医薬は洋薬といわれ、相当数のヨーロッパ生薬もありますが、化学薬が多いのが特徴です。生薬ことに漢方薬に配合する生薬には、効能効果や安全性において化学薬にはみられない特長があります。

 今、私たちのまわりには様々なお薬があります。

 そして生薬もそのままのかたちで、あるいはエキス剤として医療のあらゆる場面で活用されています。
 数多くの生薬が昔ながらの漢方薬として医療の現場で日常的に使われている他、ほとんどの胃腸薬やかぜ薬、また奇応丸、六神丸などの民間薬の原料として幅広く用いられているのです。

   これを機会にぜひ、皆さんのまわりのお薬、とくに生薬を勉強してください。



宇治 昭 (薬学博士)